「丁寧な暮らし」憧れます。
毎日を丁寧に生活している人のブログや本を読むと、とても魅力的に感じます。
自分や家族を大切に扱っているように見え、理想的な生活に思えてくるのです。
そんな暮らしに憧れて、ちょっと頑張ってみたけれど、できない。
「みんな丁寧な暮らしができているんじゃないの?」
「できないのは私だけ?」
そんな私が落ち着いた暮らしは丁寧な暮らしができなくてもいい暮らしでした。
丁寧な暮らしができないことは悪い事なの?
職場の先輩からある日おすそ分けを頂いた。
「家で作った味噌なの。簡単にできるのよ。」
ある時は娘の同級生のお母さんが
「うちはパンは家で焼いてるの。慣れたら簡単だし買いに行くよりいいわ。」
そのお母さんは、娘に手作りのワンピースにバッグを持たせていた。
義母から届く娘の為に作ったセーターや手提げ。
どれも私は作ることが難しいと感じてしまう物。
パンなんてここ3年は自分で焼いていない。
「みんながしているのに、私は何一つしていない。私はダメな人間だろうか。」
丁寧な暮らしができない事が、悪いことをしているかのように思えてくる。
丁寧な暮らしってどんな暮らし?
私が思う丁寧な暮らし。
日々の何気ない事もひとつひとつ丁寧に行っていくこと。
きっと洗面所の鏡はピカピカで水滴なんかついていないし、冷蔵庫の中だってきっちり
片付いているはずだ。
料理は手作りでなんでも作る。
保存食から季節の料理も難なくこなし、出汁は粉末を使ったりしないだろう。
子どもにもしっかり向き合って、おやつは手作りするし、一緒に家庭菜園なんかもして食育したり。
うっかりスマホを見る時間が長くなって寝る時間が遅くなることもないだろうし、体調管理のために運動もしている。
自分のスキルアップのための勉強を計画的にしていて、姿勢を正して机に向かっているようなそんな暮らし。
私にとっては、とても素敵に見えるけれど、どこか教科書の中のような暮らし。
そんなイメージの暮らしは憧れのような「しなければいけない」「できて当然」と思う暮らしでした。
丁寧な暮らしができないのはどうしてだろう?
そんな丁寧な暮らしが私にはできませんでした。
もともとの性格が「めんどくさがり」という事が大きく関係しています。
でも、教科書のような丁寧な暮らしは「しなければならない」し「できて当然」と思っていたので、努力はしてみました。
丁寧な暮らしはめんどくさがりな私には、やるべきことが多すぎました。
何かを一から作ると、洗い物も増えて時間も倍以上かかります。
それを楽しめてやれているうちはいいのですが、義務になってしまった瞬間にそれは苦痛でしかなくなります。
何かの修行をしているかのような苦行です。
すると、次からはやらなくなってしまいます。
マメにコツコツすることが喜びにつながらない性格の私には向いていない生活だったのです。
丁寧な暮らしができない私の暮らし
丁寧な生活が向いていないと分かった私は「では私に合う生活はどんな生活だろう?」と考えました。
「何が自分にとって心地よいのか」
自分の生活スタイルで自分を苦しめてしまうことは本末転倒です。
日々の事をとりあえずこなしていきながら、丁寧にできない事に少し罪悪感を感じつつ、私らしい生活の仕方を模索します。
本当に必要なものは何か
「やるべきこと」と思っていた事が実はそんなに必要な事ではなかった。
私はある日、嫌々行っていた集まりが「実は行かなくても良いものだった」という事を知りました。
私は必要のないものにストレスを感じながら時間を割いていたのです。
「本当に必要なものは何か」
必要なものを考えていくと、面倒に思っていたものがいくつか省ける事を発見しました。
同時に持ち物も「持っているのが当たり前」と思っていたけれど、持たなくても大丈夫なものがあると気づいたのです。
必要なものは実はもっと少ないのかもしれないと気づいた瞬間でした。
たくさんの物事に囲まれているということ
生活をしていると「私」「妻」「母」という役割にはそれぞれにやることがあり、常に何かに追われている感覚がありました。
それに、当時はフルタイムで看護師をしていたので、看護師という自分の役割が加わり大忙し。
常にやることがあって、「丁寧に」と思える精神状態ではなかったのです。
「正確に、素早くこなす」これが日々のモットーでした。
たくさんの物事に囲まれていると、自分の心地良さやこだわりに無頓着になっていきました。
いつも余裕がなく、過ぎていく。
毎日をただ消費するように生活をして、満たされていない自分は丁寧に生活できていないと心のどこかで責め続けていたのです。
丁寧であるべきという呪縛
「丁寧に暮らしたら満たされる」「丁寧に生活するべき」そう思って関連の書籍を買い集め、ネットで情報収集。
「丁寧に生活していれば、子どもがいい子に育つはずだ!」と思い込み、何事にも丁寧であるべきだと自分に課していました。
「丁寧は時間をかけるべき」
「丁寧は清貧であるべき」
「丁寧は手作りであるべき」
「丁寧は…」
たくさんの丁寧のルールを自分で作って、自分を追い詰めました。。
丁寧であるべきであるという呪縛はどんどん私を苦しめ、丁寧な暮らしができない自分が悪いんだど自己嫌悪に苦しむことになるのです。
私らしく暮らすということ
丁寧に暮らせない自分を責めて、自己嫌悪の日々にふと思いました。
「私って、何が楽しくて生きてるんだっけ?」
「丁寧であるべきと思っていたけれど、それは必要なものだったのか?なんで丁寧にこだわっていたのだろう?」と。
本来の私が望むことではないのかもしれないとやっと気づきました。
「私は私のままでいい」そう思えると少しホッとしたのです。
私らしく暮らすことをやっと考え始めました。
丁寧な暮らしができなくてもシンプルに暮らすことはできる
丁寧な暮らしはできずに挫折しましたが、「本当に必要なものは何か」と考える事ができるようになっていたので、以前に比べ常に何かに追われている感じが減っていました。
「必要なものだけを残したシンプルな生活ならできるかもしれない。」
私はどんどん生活をシンプルにすることにしました。
こだわっていた料理は粉末だしだって使うし、冷凍の食材も使う。
洗剤は粉石けんは卒業して、ドラム式洗濯機を導入。
職場は思い切って退職して、近所でパート勤務をすることに。
どんどんサイズダウンしていく私のこだわり。そして見えてきた私の好きな事。
シンプルに生活することで、私は私らしい暮らしを手に入れたのです。
小さな暮らしは私らしくてちょうどいい
憧れた丁寧な生活は合わなかったけれど、自分に合った生活を選ぶようになると、暮らしが小さくなっていきました。
遠くまで出かけていくことで「時間をかけて手寧を実践してる」と思っていた事もありました。
しかし、「時間を他にも使いたいから、近場で済ませる」という選択肢ができたのです。
行動範囲は以前に比べてぐっと狭くなりましたが、充実度は比べ物になりません。
交友関係も狭まりましたが、予定が埋まりすぎることもなく以前よりも楽しく過ごせています。
仕事は事業所の規模が小さくなりましたが、やりがいは大きいのです。
小さな暮らしは、思っていたよりもずっと私に合っていて心地よいものでした。
その時の自分に合わせて暮らしも変わる
今はこの暮らしが心地良いですが、年月が経てば私も変わります。
子どもがもっと成長したら、また働きかたが変わるかもしれません。
加齢とともに好きなものも変わるでしょう。
その時の自分に合わせて、この暮らしは変化していきます。
私らしいシンプルで小さな暮らしは進化していくのです。
それでいいと思っています。
まとめ
丁寧な暮らしができない事は悪い事ではありません。
丁寧であることは素敵ですが、それが負担になるのならばしなくてもよいのです。
自分らしいシンプルで小さな暮らしを見つけていきましょう。
そして、変化していく暮らしも楽しみたいですね。